昭和40年12月31日 朝の御理解



 改まりをさしてもろうて 頂くおかげをお道の信心には、この二つがどうしてもこの車の両輪のように、相まっていかなければ、いけないように思う。もうもう改まってさえいけば、研いてさえいけば、そして、神様のお心にかなう有り方にならせて頂いて、そしておかげを頂いていく。それだけで、おかげは結構という訳にはいかん、人間私共はね、もうきりがない。
 自分達が改まらなければならないという事やら、お詫びをしなければならない事は、もう本当に、これで良いという事はない。もう私は 神様に喜んで頂ける様な、完全な信心がでけておると、もうこれ以上 私しゃ研くとこはなか という様な訳にはいかん、限りなく研かなければおられんのであり、限りなく気付かせて頂いたら、お詫びしなければならん事が多いのである。
 実意丁寧 そこんところを取り組んでいっとっても、そうなのである。だからというて、これがでけるまでおかげはいらん、いやこれだけで結構という訳にはいかん、やっぱり縋らなければおられんのであり、願わなければおられんのである。そこんところで私はですね、神様のおかげを受けると を修業さしてもらう、お参りをさして頂いて、お取次を頂いて、お願いをしておかげを受けるということ。
 それを同時に相まった私共の 信心のみ教えをもとにしたところの、信心生活が出来て、本気で改まらしてもらうぞ、清まらしてもらうぞという様な生き方さして頂ながら、そこに受けてくるところのおかげ。昨日私ある方のお取次さして頂いた。勿論年末の事でございますから、その年末の支払いがスムーズにまいります様に、同時に又為には集金のおかげを頂きます様にと、お金のお繰り合わせを頂く事の願いであった。
 そしたら神様に頂きます事が、ラムネ ラムネですね、飲物ラムネのあの上に こうレッテルが貼ってありますよね、封印の様にして あれをこうはいでから、あれは中玉を落とすようになっている、そしてそれを ごくごくと飲んでいるところを頂いた。ハハアーこういう様なおかげを頂くばいなあと私が思うた。ね、もうませきにあわん、どうでも昨日今日 今日までにはおかげを受けなきゃならん。
 例えていうならばです、受けものを作ってからおかげを受けなさいとね、しっかり いわば信心さしてもろうて、ね、信心の受けものを作らしてもろうて、言わば限りなく美しくならせてもらい、改まらしてもらい、ね、本気で研かして頂いて、その おかげの受けものをもってから、お取次を頂く、そしてお願いをするというおかげ。けれどももう、そう研くことも改まることも、もう時間がない。
 おかげの方頂かんならんという事だと私は思うたんです、ね。ラムネの上のレッテルの様なものをはいでおるところは、私は神をはずすと思うた、信心はちょっとぬきにして、後からゆっくり信心はいたしますから、信心はでけとりませんけれども いっちょベスッちいうごたるおかげば頂かしてください、という事だと私は思うた。これでもね、やはりおかげは受けられる。
 お道の信心さしてもらえば、お取次の徳によって受けられる。特別に神様 特別の例えば氏子に信はなくともです、願えばおかげを下さる。それは悪人であろうが、善人であろうがです、そういうおかげも受けられる.。からというて、それだけに終止したんではいわば金光様の信心は低級だと言われても仕方がないです。ねえ、いわば神をはずす 信心をはずす、只自分の都合の良いように。
 ベスッというごたるおかげだけを頂きたいという様な ラムネを飲む様な信心ではです、本当じゃない。というてそれとてもです、実をいうたらそう願う、それを願わなければおられんのが私達だ、とあーた信心を何時も頂いとるか ちいうと厳密に自分というものを本気で見極めた時にです、こんくらいな信心でおかげの頂くはずはないというものが、此処にあろうが。
 それでもやっぱりベスッという様な、おかげは頂きたい。人間の知恵やら力では、どうにもでけない事です、ね、お願いをさしてもらい、おかげを受けさしてもらうという事。昨日 土井の久富さん 少し早めに見えられて、この各部屋部屋にかけられている軸物やら、その額なんかの取り替えをされる為に、少し早く見えた。ところがその半ばから胃がせきだした。それも御祈念が済んでから、ま少し残っとる。
 それをしなければならないときから、先生 あの胃が痛みよりますから、何時も私、久富さんに ああしてその、なでたり、さすってもろうたりいわゆる あんまをしてもらいますから、私もそこのストーブのところで、大体どこ、私、お腹を出させてから、手をこうやって、あてさせてもらった。そして、神様にいわゆる、私が何時も言う様にねお互いがひとつ、本当におかげを頂く、痛いかゆいを治してもらう時に。
 矢張り一つのアイデアがある、と ね、特に椛目は左を大事にするから、左の手をもって一生懸命痛いところを、金光様金光様とさすんなさい、皆んな此処でおかげ頂いとりますもんね。もちろん金光様 金光様、金光様というてそのさするからにはです、なでるかわりにはです、金光様金光様というておる内にです、あれも御粗末であろう、これもご無礼であろうという様なものが。
 勿論金光様金光様の中には感じられる。ですから、金光様金光様と云いながら、お詫びをするわけなんです。そして、私その意味、ここんにきが胃だろうと いうところに手を当てて、じかに手を当てさせて頂いてです、神様に御祈念をさして頂きましたら、頂く事が クワイという野菜がありますね。クワイというイモの様な芽がこう出たつね、クワイという野菜 あれを私、心眼に頂きますもん。
 ハハアーこりゃ繁雄さん なでたり さすったりしただけじゃいかんばい こりゃ、ね、例えば いっちょ食わんというてから、食べんというわけにはいかんもん、人間じゃけんね、三度三度の食事、これはもう、お許し頂かにゃでけんのだけれどもです、ね、いうならば、ちっとばかり胃が悪いもんじゃから、口がいやしい。 そして子供の食べよるもんでん、おっとって食ぶごたるものがある。
 いやしか、だから、そういう事だけはしっちょも くわいということにならんと、おかげにならんばいと私 くわいという事は、食わんという風に私は感じたんです。したら久富さん云われるとです、それがあーた、出かけに子供が昆布を食べよったげな、おいしかろごたるけん、俺にもちっとくれと云うてから、食べたところが、ハイはどっこい悪いもんじゃけん、こげな大きなのをぐのみしちゃるごたる。
 それがここにひっかかってから、どんこんいかんごたる、も、胸んにきひっかかっとるごたる、それでもう此処で手洗いの水を、金光様金光様ち云うて、しっかりのうじゃるです。下がるとは下がったもんの、胃の中に入ってから、それが がまだしよるごたる風で、もう痛みだした、という訳なんです。だからそういう事をこれから謹めと、そういうことを改まれと、そういう事をいっちごくわい、ということになれと。
 久富先生がこっちゃん来なさいってから楽室さん連れて行ってから、もんでやりよんなさいました。ま二,三十分もまれたら、顔色が青うしとったのが、赤みが出てからおかげ頂きました、ち云うてから出てきなさった。なる程、久富先生のもみなさったという事もおかげなら、ほんなこて、心の中に あげないやしい事はせんと、神様があの 繁雄さんが神様に誓いなさったであろう。
 そのことを その事がひとつになっておかげになったと。もみなさったのはこれは信心もでけんのに、ベスッちいうてから、そのラムネ飲んだ様なもんです。けれども、そこに御理解の有難さがある ね。只、左の手でなでなさったち 云う訳にはいかん、撫でると同時に改まらせて頂かんならん事、改まらせて頂くところに、その両方がでけていくところに、いわば本当のおかげが頂かれるのである。
 これならば必ず力がつく、ラムネの いうなら神をはずしてベスッちいうごたるおかげを頂くだけじゃ、ラムネの血にも肉にもならない様に、それでは力にはならん、只おかげ ベスッというそんときだけのおかげ だから段々日にちが経つに従って、喉元通れば熱さ忘れてしまう様な結果になってしまう。ところがあの時にです、ほんなこて こげないやしいことは、いっちょごしませんという。
 神様へのお誓いがでけて、卑しい心が自分の心から、はずれる事によってです、それとこれとが一つになって 頂いてくるところのおかげが、私は本当のおかげだと思う。金光様の御信心は、そこんところ 御教えん中にもそれがある、願う氏子におかげを授け、後に理解申し聞かせ と こう仰っておられる。願う氏子におかげを授けという事はです、信心はでけんでも、願うてきたらまず、おかげをみせなければならん、ね。
 そのかわりに その後には理解を申して聞かせと、こう仰る。
 話をして聞かせうねそういう様な事ではいけんじゃないか、此処を改まらなければいけんじゃないか、天地の道理に基づいてお話を聞かせてやれと、こう云うておられます様にです、そことこことが一つになって金光様の御信心のおかげというものが、成り立っていく様な、おかげでなければいけない。それを何年何十年経ってもです、只願う氏子におかげを授けんところだけを頂いて行こうとする様な、さもしい心ではです。
 力はつかんと私は思うですね。繁雄さんの、夕べのそれがそうでしょう、ね私が撫でたり、久富さんが一生懸命もんで下さってという事によって、おかげも頂く事と同時にです、御理解に頂くいっちょが くわい いっちょがくわいぞという、その御理解を頂いてから、それをこれとかひとつになって、おかげで痛みがとまりました、というおかげになってこなければ、本当な事じゃない
 して見ると昨夜の、その胃の痛みというものがです、本当に改まれる事になられたらです、いやしいことはせんで済む様な、おかげを頂けば有難いでしょう。人間がそれだけ美しゅうなることなんです。今晩は一年の最後の 一番最後のお祭りが、八時半から御座います。それを今では、お道の信心では大祓式と申しました。ところがこら大祓式というのは、どうも金光教的ではないというので。
 まあ色々にお礼 一年中のお礼の又はお詫びのお祭りだと、いう風に名称を変えられてするのでございますけども、私は、やっぱり大祓は大祓だと思うですね。これは私、昨夜の御理解に頂いた事を、皆さんに聞いてもらったんですけども、これはまあ、私が云うより 甘木の初代の親先生のお話をさしてもろうた方が皆さんが。合点がいかれるから、例をもってお話しますとです。
 ある時にある先生が、甘木の親先生に大祓の事をお伺いされた。大体金光教的ではないと 只 祓うてから、そげなこつは その大祓式なんかというものは、金光教的でないと大体あの大祓を受けるということは、何か役に立つもんだろうかという意味の事を云われた時にですね、受ければ受けるがたある、と仰ったそうです。お祓いを、受ければ受けるがた有ると仰った、これが私が先程申します。
 いわば信心はできんでもお祓いを受けたらです、ねえ、ここではお払いなんか致しませんから、除夜祭なら除夜祭にお参りをさして頂き、頂いただけでです、一年中のある意味での、いわば御粗末ご無礼のお払いの一部は取れるという事。参りゃ参るがたあるという事、お祓いを受ければ受けるがた有るという事、それはそうですもんねえ、そういう例は沢山有ります。ね。
 祓いぬぐい清められたのに、病気が治ったという人達も、私共昔から聞いておりますもん、お祓いを受けたとたんに痛みが止まったといった様なおかげを受けております。ね、いうなら 只今申します様に、ラムネの様なおかげです。神をはずしてベスッというごたるおかげです、お祓いを受けただけで、一年中のどげな悪かこつしとったっちゃ、お粗末ご無礼消えるとするならです、消えてはしまわんに致しましても、いわゆるお祓いを受けたら受けたがたある。
 ですから、これをまあ私は、仏教的の他力とか自力とか いう言葉があるけれども、これは私流に解釈してです、他力というのは 只神様なら神様だけの働きをもって、おかげになる、自力というのは 自分が白真剣に修業さしてもらい一生懸命改まらしてもらい、一生懸命 いうなら自分の力をもって神様におすがりするという様な生き方と、まあ、そういう風に解釈致しましたですたい ね。
 神様からお祓いを受けて一年中のお粗末ご無礼を、例えば五つお許し十ご無礼があるならです、お祓いによって五つ祓うてもらう。後の五つはぎりぎり本気でです一年中かかっても出来なかった様な、この事を改まらしてもらわにゃと思うとったけれども、改まる事がでけなかった、研く事もでけなかった。そのことを例えばあと一日でも二日でもその事に本気で取り組まして頂いて、できんところは神様にお参りさして頂く。
 という様な生き方、そこに自力と他力、神様の特別の働きを、私共の一生懸命になるその働きとが一つになって、本当のおかげを頂くという訳なんですから、ねえ、今晩はそういう意味合いでのお祭りが、八時半から御座います。だから私はこれは本当にこれは椛目のものにしなければならないと思う事は、大祓という大祓という、大祓式というのはどうでもさして頂こうと思います。今後此処が教会にでもなったら。ね、
 いわゆる、一年中のお粗末ご無礼を、本気でお詫びをするお祭りにしたいと思います。でないと元旦のです、本当の一年中のお願いが、生きてこないです。詫びれば許してやりたいのが、親心じゃと仰るから、一年中の本当の御粗末ご無礼を、自分で気付かして頂いたら、御粗末ご無礼の限りをです、神様の前に平身低頭お詫びをさせて頂いて、せめてお詫びの印にという様に、自分の心の中に。
 取り除くものは取り除かしてもらい、改まるところは、改まらしてもろうてです、お詫びの印とさしてもらい、ね、特に神様の、いわゆる他力の働きによって。いわば払えば祓うごとあるという お祓いを受けさしてもろうて、そして愈 明日の元旦の、いわば四方拝を頂かねばならん。四方拝というのは、自分の周囲の一切が拝めれるという心。只気分だけではいかん、夕べの御理解にそんな御理解を頂いた此処でも。
 いわば軸か 目出度い鶴の絵にかけられたり、梅や竹の絵に掛けられたり、福寿草の額にかけられたり、それは見ただけでもこう縁起のかごたる風な、その部屋中の作りからかえる。お掃除もする、借金払いも済んだ、なんとはなしにすがすがしい すっきりした気持ちでです、気分で いわば正月を迎えようとこういう、けども気分出迎えたんでは、又すぐ同じ事に戻ってしまうから、やはり有難いという。
 お正月でなからにゃいけんという事である。
 自分の執念、姿勢を守れるような内容にならなければ、いけないという事だった、それは例えば、この三十一日の大祓式にあたる、此処では除夜祭とこう申しますが、除夜祭のおかげを頂かしてもろうて、一年中の御粗末ご無礼を心から、お詫びさしてもらい、お詫びの印に改まらしてもらい、それに神様の特別の働きを受けさしてもろうてです。いわゆる詫びれば許してやりたいのが親心と仰る。
 そういう何かお詫びが許されたという感じでです、心から本当に勿体ないという、その心でです、いわゆる、明日の新しい言わば年を迎えさして頂きたいという風に、昨夜申しましたんですけども、それとても今日の御理解から申しますと、同じ様な意味の事が云える様ですねえ。金光様の御信心は、どこまでも 只今申します様に。ね、なでたりさすったり、只お願いしただけでおかげを頂くと云う、おかげと同時にです。
 もういっちごくわいぞと こういうような改まりの心を、神様にしめさしてもろうて、それによって頂くおかげとがひとつになって、おかげを頂いていくというでなからなければ、本当の力にはならん。紙をはずしたり、ベスッとはいうたという様な 只 ラムネを飲む様な信心では、何時まで経っても力はつかん、力を頂くと云うのは、矢張り自分の、言わば改まりというか、心からのお詫びをさしてもらい。
 改まりをさしてもろうて、あの時のおかげ あの時に自分のこれが取り除かれたと あの時に此処が研かれたという様に、おかげを頂いていってこそ、力になってくるのです。ですから、片一方だけで良いという訳にはいかん、人間というものは、もうどんなに一生懸命勤めても勤めても、勤め足りないのが務めでありまして、どんなに本気で美しゅうなろう、美しゅうなろうと勤めておりましてもです。
 厳密に云うたら、汚い自分である事に気が付かせて頂くのでありますからね。そういう汚い自分でも、願わんでよいかというと、願わなければおれんのが私達なのであるから、願いもする。ね、お詫びもする、改まりもする、そこから頂くおかげそこから身についてくる信心、そういうものを本気で身に付けていきたいと思うですね。
   どうぞ。